「マリリン・モンロー/わが妹、マリリン」 バーニース・ベイカー・ミラクル モナ・ラエ・ミラクル - 2014.08.24 Sun
ふたりが、マリリンの思い出をつづった本を、彼女の死から32年後、1994年になってから出版した。
私はマリリン・ファンといいながら、映画は見ても、彼女に関する書籍は、これまで、それほど読んではいないと思う。
マリリンの経歴は、母ひとり子ひとりで、孤児院にも入り…といったふうに、女優として売り出すときに作りごとを交えて作成されていたから、きょうだいがいるということは、かなり長い間、私自身、考えてもいないことだった。
姉妹がお互いの存在を知らされたのは、バーニースが19歳、ノーマ・ジーン(マリリンの本名)が12歳のとき。
(バーニースには2歳上のロバート・カーミットという兄〔つまり、ノーマ・ジーンにとって異父兄である〕がいたが、彼は14歳で亡くなっている。)
お互いを知っても、バーニースは大陸の東側、ノーマ・ジーンは西側のロサンゼルスと大きく離れていて、すぐに会うことはなかったようだ。
はじめて会ったのは、1944年の秋、ノーマ・ジーンが姉一家のいるデトロイトにやってきたとき。彼女は夫のジムが商船隊の海上任務に出ている間に、ひとりで姉を訪問した。
バーニースは25歳、ノーマ・ジーンは18歳になっていた。ノーマ・ジーンの姪であるモナ・ラエは5歳。ノーマ・ジーンはモデルの仕事を始めていた。
はじめて会った喜びにあふれた姉妹の会話は興味ぶかく読める。
このときは、何日くらい滞在したのだろうか。

ノーマ・ジーンは、バーニースの夫がロサンゼルスで仕事を見つければ、姉妹一緒に暮らせるからと、しきりに誘ったようだが、ついに、そのようなことにはならなかった。
一緒に住んでいたら、ノーマ・ジーンの運命は変わったのだろうか…。
1946年夏、今度はバーニースがモナ・ラエを連れてロサンゼルスへ。
神経を病んでしまった母親のグラディスも病院を退院していて、一緒に過ごしている。ノーマ・ジーンはフォックスと契約をし、映画スターの道を歩き始めたところだった。
グラディスは娘ふたりと過ごしても、打ち解けなかった…。バーニースもノーマ・ジーンも、どんなにつらかったことか。
このときのバーニースたちの滞在は、予定していた3か月よりも少し短かったようだ。
1961年7月、バーニースは2週間の休暇中、大スターになったマリリンのニューヨークのアパートメントを訪問する。
マリリンは胆嚢手術後で療養の最中だ。
手紙のやりとりは多かったらしいが、姉妹が会ったのは、以上の3回ほどしか書かれていない。
もし、たったそれだけしか会っていないのだとしたら、なんだか、かわいそうな気がするが、でも、姉や姪がいるという喜びを、ノーマ・ジーンが味わっていたという点については、ああ、よかったね! と思う。
姉しか知りえない(姉にしか見せない)妹の様子や感情の記録を読むと、素顔のノーマ・ジーンを知るようで、とても感慨深い。
赤の他人が書いたマリリンの本よりも、「姉」が書いたもののほうが、もちろん、心がこもっていて真実っぽいといえる。
(8月21日読了)
● COMMENT ●
>たけしさん
姉妹と分かったら、もっと頻繁に会わなかったのかなとも思いましたが、自分の場合を考えてみると、離れて暮らしていると、それほど会わないものかもしれません。
ましてやアメリカ大陸の東と西ですし。
でも、いつも心の中にお互いの存在があるのは、素敵なことですよね。
>officeroaderさん
ご長寿ですね~。すばらしい!
アカデミー名誉賞、署名数がまだまだ全然不足のようですが、ぜひ、もらえるといいです!
>officeroaderさん
本にも載っていた写真や、手紙の文面も。
5分半あたりに「嵐の園」出演シーンがカラーでありますね!
これからもお元気でいてほしいですね。
>shodaさん
100歳はすごいです! ノーマ・ジーンのぶんも生きてくれているのでしょうか。ますますお元気でおられますように。
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私もこの本が出るまでマリリンに姉がいる事を知りませんでした。